東芝労働組合の歴史

1.敗戦と東芝

 終戦当時の東芝は、従業員が約40,000名で工場は全国に所在し、主力工場は戦災で壊滅状態となり、社会の激変に工場内部もかなり混乱していました。
 世の中は日増しに激しくなるインフレと、食料をはじめとした生活必需品に窮迫し、公園や駅には浮浪者があふれていました。
 こうした状況の中で、占領政策と相まって急速に労働組合結成の気運が高まってきました。

2.組合の結成

 昭和20年(1945)12月14日に、東芝堀川労働組合が結成され、その後、全国に所在する各工場(44工場)に労働組合が作られ、賃金の5倍引き上げ、賃金の男女差の廃止、工場の民主的な運営などを要求して闘いをすすめました。
 当時は、関東、関西、東北にそれぞれ連合会が作られ、連けいを取り合いながら別々に活動していました。

3.10月闘争(55日間闘争)

 慢性的な企業整備問題を抱える中で、首切り絶対反対、生活賃金の確保、経営の民主化の要求を掲げた交渉は決裂し、三つの連合会は、昭和21年(1946)10月1日以降、日本の労働運動の歴史に残る55日間のストライキに突入しました。
 長期闘争に対して行商隊、各種作業班による生活対策、街頭宣伝による世論喚起など、多彩な闘争が組まれました。

4.東芝労連の結成と分裂

 組織化のため、昭和23年(1948)3月に、三つの連合会は発展的に解散、統一し、東芝労働組合連合会となりました。
 昭和24年(1949)2月には(占領政策による)集中排除法に基づく28工場の処分が提示され、厳しい闘争が展開されましたが、実質的な分離条件を獲得して闘争は終了しました。
 さらに6月には残りの16工場に対して、4,500名を超える大量解雇が提案され、労連の運命をかけて闘いましたが、途中で組合内部の意見が分かれ、二つに分裂、11月に新労連が結成され、新旧の二つの労連時代がはじまりました。
 解雇反対の闘争は11月まで続けられましたが、対象者の90%が希望退職し、就職の斡旋などの条件によって解決しました。

5.新旧労連の統一

 昭和24年(1949)からは、新旧労連が別々に賃金交渉を行いましたが、組合組織の分裂は致命的であり、組合の統一を望む声が高まってきました。
 新旧労連の共闘と話し合いを積み重ねる中で、昭和26年(1951)8月7日に統一大会を開催し、分裂から1年有余の短期間に再統一の東芝労働組合連合会がスタートしました。

6.東芝労働組合の単一化

 連合会から単一労働組合とするための討議を重ね、昭和45年(1970)の第23回定期大会において単一化がはかられ、『東芝労働組合』となり、それまで単位組合であった事業場単位の組合が『支部』となり、現在に至っています。